うちの旦那はオネエ様

地方在住、ホモのひとりごと

石川大我先生、仕事してくださいね

今日もホモのひとりごと

 

同性婚の実現を訴えて参院議員に当選された石川大我先生であるが、

最近は同性婚に関して何かやっているのかまったく不明で、

入管関係の事例についてご熱心なようである

 

まあ、これはこれでよろしいのだけど、

仮にも入管で問題があるのなら、

それを何とかできる立場にいるのが石川大我先生であるはずで、

ツィッターでうだうだ主張している暇があるのなら、

おたくのえらい人たちに掛け合って、

桜を見る会よりこういったことの方が大事じゃないでしょうか」

と進言してみればいかがなものか

 

さらに、そもそも何でその人たちが、そこに収容されているのか、

そこから考える必要があるのではなかろうか

 

相変わらず石川大我先生が考えていることは、

底辺の世界で生きているホモにはさっぱり分からない

 

私が敬愛してやまない石川大我先生のサイトを見ると、

冒頭にはこんな一文がある

 

「自分は普通だ」「いつかは治る」
中学生のとき,毎晩,布団の中で言い聞かせていました。
それでも,同性に気持ちが向いている自分に気づき,
何度も絶望的な気持ちになりました。

私の場合は幸い多くのLGBTの仲間たちと出会い,
生きることができましたが,
3人の友人が,みずから命を断ちました。

“普通であること”を押し付けられ,生き辛さを抱えている人がいます。
頑張ったところで,未来など見えず,不安のなかで暮らす人がいます。
孤独の中でSOSを発信できず,追いつめられている人がいます。

今の政治に,そんな「わたしたち」は見えていません。
それでも,わたしたちは,ここにいます。

どんな境遇の人にも向き合う社会――。
わたしたちの「違い」が肯定される社会――。
そんな社会を実現する政治をつくる。
これが,私の使命です。

http://www.taigaweb.jp/index.html

 

私は石川大我先生の著書、「ボクの彼氏はどこにいる?」を改めて読んだのだけど、

石川先生は「生きづらさ」を後付けしているんじゃなかろうか、

そんな印象を受ける

 

実際に石川さんの著書には小学生の頃のエピソードとして、

こんな一文が記されている

 

一学年先輩の六年生、Kくんとの出会いだ。彼は、どうやらクラスの人気者らしく、女のコにもかわいらしいアダ名で呼ばれていた。

ボクは初対面の彼となんとか仲良くなれるように、彼と仲良しの女のコと仲良くなる、といった作戦を実行した。作戦はあっさり成功し、ボクは彼に急接近することができた。

会話の中から、どうやらKくんの自宅は小学校の近くで小鳥屋さんを営んでいるらしいこともわかった。ボクは一緒にいて楽しい、そしてボクのことを「タイガ、タイガ」と言ってかわいがってくれる彼と会うことがとても楽しみになった。

 

中学生になった石川先生は「同性愛」についていろいろ情報収集に励む

そして、次に得た情報は保健体育の教科書だった。恋については「男のコは女のコに恋をして、女のコは男のコに恋をします」といったようなことが書いてある。そして、ボクは教科書の下の欄外に、小さく書かれた「同性愛」の説明を見つけた。

その説明は、同性愛は「思春期の一過性」のものであるから時間が経てば変化する、といった内容が書いてあった(これはフロイトによって唱えられた説だが、現在では全く支持されていない)。

ボクの解釈はこうだった。「ボクは異常性欲の持ち主だ。でも、思春期が過ぎればきっと『治る』さ」

 

ずいぶんポジティブな印象がある

そう、この「ボクの彼氏はどこにいる?」は

こういった前向きな話の積み重ねなのだ

 

少なくとも、石川さんが現在サイトに書いてある

「自分は普通だ」「いつかは治る」
中学生のとき,毎晩,布団の中で言い聞かせていました。
それでも,同性に気持ちが向いている自分に気づき,
何度も絶望的な気持ちになりました。

とはまるっきり違う話なのよな

 

石川先生が転機を迎えるのはあくまで「すこたん企画」と出会ってからである、

ということが「ボクの彼氏はどこにいる?」を読むとよく分かる

 

私自身もまったく石川先生と同じ状況をたどっている

それまでは自身がゲイであることなんて

「誰にも言えない」だけの話だったのよな

 

私なんて住み込みの生活だったから、

イケメンのバイト君と同じ部屋で生活したりお風呂入ったりと

むしろゲイであることを満喫していた側、といえる

 

それが「すこたん企画」のサイトを通じ

「同性愛者は自分らしく生きられない」

という考え方になってしまった

 

今のLGBT活動家さんたちの考え方の根幹には

「自分らしく生きられない」という部分があるのだろう

 

けど、「自分らしく生きてる人間」なんて、

そもそもいないのだ、ってことに、

ぼちぼち気づく必要があると思うのよな

 

誰しも、一定のルールの元に生きている

 

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そして、これ以上はあまり「死」について追及したくはないのだけど、

石川先生はサイトにも

私の場合は幸い多くのLGBTの仲間たちと出会い,
生きることができましたが,
3人の友人が,みずから命を断ちました。

 と書いているので、

あくまで「疑問」を記しておく

 

先日、松岡宗嗣さんが以下のようなツィートをされた

 

 

 

この一橋大学で起きた哀しいできごとに関して改めて思うのは

「我が子を失った親の存在」が見える、ということか

 

我が子が何らかの理由で命を失ったとすれば、

その真相を知りたいと思うのは親として当然であろう

 

この一橋大学の件の親御さんだって、

だからこそ裁判で戦っている

 

これこそ「自然な姿」だと私は思う

 

一方で、多くのLGBT活動家が

「自ら命を絶った」友人の話をするのに、

今の今まで「親」が出てこなかったのは不自然と言えないだろうか?

 

そう、本来ならLGBTの活動に、

一番表立って現れても不思議でないのは、

「子を亡くした親」であると思うのよな

 

同性愛者であることを苦にして自殺された方がいるのなら、

「何とかしてほしい」と真っ先に願い出るのは「親」のはずである

 

しかしながらLGBTの自殺でいつも出てくるのは

「親」ではなく「活動家」だけなのよな

私はこの点が不思議で仕方ない

 

しかも、石川先生に関して言えば、

昨年の夏の選挙になって初めて「3人の友人の死」に言及している

いろいろ調べたけれど、

今の今まで石川先生はそんなこと、一言も述べていないと思われる

 

「ボクの彼氏はどこにいる?」にもそんな一節はない

私の手元にあるのは2009年に出版された「文庫版」で、

石川先生自身が書かれた「あとがき」があるが、

そこでも一切触れていない

 

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まあ、現職の国会議員が言っているのだから、

事実なのであろう

 

なら、石川先生は、その自殺した友人のためにも、

国会議員として何ができるのか、

今一度考え直す必要があるのではなかろうか

 

自殺した友人は、どんな日本になることを望んでいたのだろうか

友人はいったい何に絶望して死を選んだのだろうか

石川先生は、そういったことを国会の場で語る必要があるんじゃないのかな

 

同性愛者であることを苦にして自殺した友人の苦しみを語ることができる

国会議員なんて石川大我先生しかいないんですよね

 

先日、国民民主党の玉木代表は夫婦別姓について「誰か」の話をしてましたけど、

石川先生は実際に友人を亡くしているのです

説得力も違うはずです

 

石川大我先生、ちゃんと仕事してくださいね

長年のファンの1人として応援しております